児島塩生地区(本荘小学区)は、岡山県倉敷市児島地域にある地区です。
かつての児島郡本荘村(ほんじょうそん)にあたり、現在の児島塩生(こじましおなす)、児島通生(こじまかよう)、児島宇野津(こじまうのつ)からなり、本荘小学校区に相当します。

児島半島および児島地域の西端部にあたる南北に長い地区で、丘陵地と沿岸地域からなり、元々は水島灘に面した農村・漁村でした。平地は少なく、その少ない平地部は大半が埋立地であり、現在の水島臨海工業地帯C地区の一部となり、多くの工場が立地しています。

水島工業地帯の開発により状況が一変し、元の海岸線は分からなくなり、児島と水島を結ぶ幹線道路も整備され交通量も増え、工業地へと変貌しています。なお幹線道路より西方が工業地帯、東が昔からの集落となっています。

塩生地区は、本荘地区中部にあたり、塩が生まれると書いて「塩生(しおなす)」と呼ばれる地名は、文字通り塩を生産していたことに由来しています。塩が生まれると書いて「塩生(しおなす)」と発音することは、全国的に見ても珍しいことで、地元では、塩生(しおなす)が訛って、「しょーなす」と呼ぶ人が多いのです。
古代より製塩が行われてきた地であり、地名もそれに由来しているとされています。

元は海に面していた古い集落でしたが、、水島工業地帯造成のため、地先を広く干拓・埋め立てし、これにより西方の水島灘にあった高島は、現在陸続きとなっています。また干拓・埋立以前は現在の幹線道路以西には古い砂丘が連なり、大きいものでは長さ2km、幅200mほどあるものもありました。

この砂丘からは古代における製塩作業に使用した師楽式土器が出土しています。
さらに砂丘より内側にあった低い水田の表土下からは粘土で固められた塩田跡が埋まってました。
また砂丘にあった松林の中には製塩と関わりのある塩釜明神がまつられていました。

本荘公民館の南側の塩生遺跡で1994年(平成6年)7月に発掘調査が行われたところ、塩の生産地であった事を裏付けるかのように中世の塩作りに関する遺構が発見されたほか、古墳時代後期の製塩土器の破片が出土しました。
このことから、少なくとも古墳時代後期にはこの地で、塩が作られていたことになります。また、この塩生遺跡の北側には塩作りに関係の深い塩竈神社(しおがまじんじゃ)が祭られており、塩生という地名が製塩の地を意味することは間違いないようです。

さてその昔、山と海に囲まれた狭い地域であった塩生は、北から順に、「浜(はま)」 「下(しも)」 「上(かみ)」 「奥(おく)」 「田淵(たぶち)」 「南(みなみ)」の6つの町内に分かれています。それぞれの町内の場所を案内するかのように、3つの奉燈が残っています。


1つ目は、倉敷市立本荘幼稚園のすぐ南に自然石を利用した奉燈があり、天保14年の年号が刻まれています。


2つ目は、田淵集会所近くの三差路に立つ奉燈で、天保12年に建立されたものです。自然石を利用した大きな奉燈です。


3つ目は、南集会所そばにあります。弘化3年に建立されたもので、自然石ではなく加工された石が用いられています。


これらの奉燈は、金比羅塘路として、祭の日に光明をあげて海の安全を祈ったものであり、かつて塩生が漁村であり、海との関わりを持つ村であったことの名残でもあります。

北部にある金浜(かなはま)集落は、古代製塩の遺地であり、金浜は綿作地となり海岸沿いに綿畑が多くありました。

同じく北部にある宇頭間(うとうま)集落は、元は半農半漁の家が多く、梅栽培が盛んで梅林が多く存在しましたが、現在は宅地化により減少傾向を辿っています。
当集落より西方へ長く突出した本太岬(もとふとみさき)は、児島西海岸第一の要害として中世には本太城が築かれていましたが、現在は陸地化し、先端部の天神ケ鼻が岬状となっているのみです。

前述の高島は、昭和30年頃からの水島工業地帯の増設工事で陸続きとなりました。
島の東20戸ほどの集落でしたが、集落内の船着き場は西側へと移動した。
高島は吉備高島宮の比定地のひとつとされ、高島神社(現在の産土荒神社)が古くから祭られています。また古墳や古代遺跡も発見されています。

現在、本荘公民館、そして児童公園となっている場所に昔の本荘小学校がありました。西側に残る石垣が、小学校と港の境界をなしていたようです。

 

塩生は、およそ700世帯数える自治体です。

農業と漁業の村、塩生の年中行事として、昔から現代である今も続けられているものに“盆おどり”“秋祭り”があります。
盆おどりは、塩生自治会が主体となり、婦人会、子供会、青年団、消防団などの協力の下、毎年8月10日の夜、児童公園を会場に開かれています。
会場中央にやぐらを組み提灯で飾った会場には、金魚すくいカキ氷などの夜店も並び、夏祭りの情緒の中で地区住民が一堂に集い、伝統の盆踊りで先祖やあら仏の霊を供養しています。
特に塩生では「どんかっか」と呼ばれる地踊りが音頭取りの美声と軽快な太鼓のリズムに合わせて盛大に踊られています。塩生の盆おどりは、夏の夜の一大イベントであり、子供も大人も和気藹々と心一つで参加できる楽しい行事なのです。

時代も移り変わり、人々の生活様式もさまざまで、古いものが見捨てられな世の中でありますが、塩生では昔ながらの風習に従って、現在でも現地の若者や自治体の協力の下、秋祭り(べちゃ祭)が今もなお行われています。

塩生の秋祭りは、毎年10月の第三土曜、日曜日に行われています。
塩生の神授様・塩生神社は、1558年(永禄元年)に鞆の浦から勧請した疫神宮に始まると伝えられています。

塩生の秋祭り「塩生疫神社秋季大祭」では、昔から伝わる三台の千歳楽が繰り出します。「上、下(かみ・しも)」「南(みなみ)」「奥、田淵(おく、たぶち)」の3つの青年団が揃いの法被も勇ましく、千歳楽を担ぎ上げます。

土曜の夜の宵祭では、三台の千歳楽が塩生神社の境内に集まり、賑やかで勇壮な宮入を行います。そして、塩生の秋祭りを特徴あるものにしているのが、通称「べちゃ」と呼ばれる『鼻高(はなたか)』です。天狗のような鼻高面をつけた神様が、笹を持って子供たちをはたき、悪霊を追い払い、無病息災を願います。
どうしてこのような祭りになったかは、資料が乏しく、昔の人しかわかりません。

『鼻が高いと言うが、その程度じゃ鼻べちゃじゃぁ~!べ~ちゃ~、べ~ちゃ~、べ~ちゃべちゃ!』
とはやし立てる事から、鼻高の事を“べちゃ”と呼びます。地元の方々からは、塩生の秋祭りの事を別名「べちゃ祭」と言っています。

小学生や中学生以上になると面白がって“べちゃ”とはやし立てる事ができるのですが、お父さんお母さんの迎えを待っている保育園や幼稚園の子供たちにとって、突然の鼻高の訪問は、かなり恐ろしいものです。各青年団率いる鼻高(べちゃ)が本荘保育園を訪れると、やはり泣きだす子がいます。

※地元の言い伝えによると、「べちゃ」とは“おだてる”という意味があります。

塩生の秋祭りは、保存会などという組織で強引に守ろうとはせず、今現在も故郷塩生を愛する人たちによって守り伝えられてるのです。

 

かつての吉備の児島の本荘地区の中ほどに位置する塩生は、時代の流れにより農業と漁業の村から大きなコンビナートと共存する町へと姿を変えています。しかし、年中行事の“盆おどり”や“秋祭り”に見られるように、郷土塩生を誇りに思い、故郷塩生を愛する気持ちは変わることなく、塩生に生きる人々によっていつまでも受け継がれています。